Fernwehという単語がドイツ語の辞書に存在する。旅先で故郷を懐かしむホームシックとは対照的に、見知らぬ土地を渇望する想いを表す語彙で、他の言語には無い、ドイツ語特有の表現だと言われている。
ドイツに生活する日本人の数は約5万人と言われており、多くは、駐在員や交換留学生など、何か理由があってドイツに居を構える者たちであるが、中には一定数、抑えがたい異国への憧れによって、まるで運命の糸を手繰るようにドイツに引き寄せられた人々もいる。
今回インタビューに応じてくれた、ミュンヘン在住の小林さん(仮名)もまた、その中の一人である。
「多分、自分の中の抑えられない衝動のようなものだと思います。ヨーロッパには生まれて一度も来たことがありませんでしたが、なんとなく、住んでみたいという思いが心のどこかにあったのでしょう。実際に来るまでろくな予備知識もなく、小旅行にでも来るような感覚でこちらに来て、なんだかんだでもうかれこれ5年が経っていますね。」
そう語る小林さんは、現在ミュンヘン近郊の日系メーカーに勤めている。屈託のない笑顔を見せながら、語気には意思の強さが滲んでいる。
「今でも、ドイツに到着した日のことは鮮明に憶えています。夏の夕暮れ時に、ミュンヘンの空港に降り立ちました。不安はありませんでした。ちょうど心地よい風が吹いている時分で、自分の下りたタラップを見上げながら、これから始まるドイツでの新しい生活とか、出会いとか、そういったもので胸がいっぱいになりました。」
そう5年前を懐かしむ小林さん。「小旅行のような気分で」ドイツに流れ着いたという彼は、どのようないきさつでドイツで現地就職したのだろうか。
ドイツに来た理由
「出身は東京です。大学では商学を専攻しました。卒業後はそのまま銀行に就職して、新卒で5年ほど勤めました。元々海外旅行が大好きで、学生の時から休学してバックパックで東南アジアやアフリカに旅行に出かけていたのですが、就職後は海外と接するような機会は全くなくなってしまいましたね」と、小林さんは当時を振り返る。
「別にその時の仕事に不満があったわけではありませんが、このまま一生日本で生活するのもなんとなく味がないかな、と思い始めていました。ちょうどその漠然とした思いが結実しはじめたのが、30歳手前くらいの年齢だったと思います。」
小林さんが大学卒業後に就職活動を行ったのは、ちょうどリーマンショック後の就職氷河期と言われた時代。見事内定を得て、持ち前の社交性と体育会で鍛えた精神力で銀行マンとして人の羨むキャリアを積んでいったが、あくまで国内畑の専門として、興味のある海外分野のチャンスには恵まれなかったようである。
「銀行でも海外赴任っていうのはやはり花形なのですが、別に僕は留学経験も無いし、英語はそこそこ話せたとはいえTOEICで800や900点なんて人材はざらにいる。数百人いる同期の中で、その機会が回ってくる確率って結構少ないんですよね。ちょうどその頃、ワーホリでオーストラリアに行った友人がいて、話を聞くに割と面白そう。貯金もあったし、結婚もまだだったので、折角だからワーホリビザ使って知らない国に一年くらい住んでみようかなと、辞表を提出してしまったわけです。」
ドイツと日本とでは両国でワーキングホリデーの協定を行っており、2010年以降、全国のドイツ領事館で簡単に手続きができる。31歳未満で、滞在費の証明ができる者であれば誰でも(一部条件有)ビザを取得できるこのシステムは、特に目的の無かったという小林さんにとってみるとうってつけであったようである。
ワーキングホリデー・ビザ制度は日独両国の合意に基づくもので、日本の若い人たちにドイツの文化や日々の暮らしに触れる機会を提供するためのものです。滞在可能な期間は3ヵ月以上1年以内で、最長365日、ドイツのさまざまな職場で働くことができます。申請必要書類等は下記をご参照ください。
出典:ドイツ総領事館
「特に理由があってドイツを選んだわけではありませんが、金融業の盛んな国ですし、もし職探しをするとかなると、銀行で勤務していた経験が活かしやすいのかなと思いました。とりあえず貯金には余裕がありましたし、一年ドイツ語を勉強して、特にやりたいことが見つからなかったらヨーロッパを周遊して日本に帰ってきてもいいかな、と思いました。なので、渡航後の具体的なプランとかは特になく、本当に行き当たりばったりで語学学校と住居だけ確保して、ドイツに来てしまいましたね。」
小林さんの言うように、特に渡航後のプランもなくドイツに来る若者の数は少なくない。その後、ドイツで仕事を見つけられるか、帰国するかは、その後の行動が大きく影響する。ヨーロッパには旅行の経験すらなかったという小林さんは、ドイツに渡ってどのように職を見つけるまでに至ったのだろうか。
ドイツ渡航と職探しまで
小林さんがドイツに来たのは2016年のこと。ちょうどドイツの移民政策によってアフリカ、中央アジアの移民が急増し、語学学校はドイツ語を学ぶ外国人で溢れ、当時は家を探すのも一苦労だったとのことである。
「仕事をするにせよ、生活するにせよ、まずはドイツ語が話せないとはじまらない。語学学校でとりあえず仕事を探すうえでの目安になるB2レベルを目指して勉強しました。ワーホリビザで来ているので、アルバイトなども並行して行うことが可能だったのが僕にとってよい点でしたね。お金にはそこまで困っていませんが、実践の場として、ちょうど日本語を必要とする倉庫系の会社のアルバイトをしはじめました。語学学校で学んだドイツ語をアルバイトの場で活用するというスキームが上手く回って、ドイツ語が上達していったように思います。」
日本人がドイツで職探しをするうえで最大のネックとなるのが、「職歴」である。ドイツでインターンシップなりアルバイトなり、職場でドイツ語や英語でコミュニケーションをした経験というのは、会社側も多かれ少なかれ評価の対象とするところである。小林さんの場合、幸いにもミュンヘン内で日本語人材を探しているアルバイトの求人を見つけることができたため、それが彼のドイツ語能力に磨きをかけるのに一役買ったとのこと。
「給料は学生並みに安かったですけど、毎日新しいこと続きで新鮮でしたね。人間、年を取ると時間の進み方が早くなると言いますけど、僕の場合、ドイツに来てからの最初の1年は、人生で一番長く充実していたように思います。語学学校に通って、イタリア人や韓国人の友達を作って、ヨーロッパに旅行したりと、語学もプライベートも非常に満喫した生活を送りましたね。」
元々人と話すことが好きだったという小林さんは、アルバイトの場所や友人とのコミュニケーションで積極的に英語とドイツ語を使用したと語る。その分、語学の能力もめきめきと上達し、ドイツ滞在半年もすると、日常会話をそつなくこなすレベルとして認められる「B2」の試験に合格した。
ドイツでの就職を考えるにあたって、B2レベルに達するというのは一つの分水点でもある。実際に、過去Career Managementを通してドイツで就職した日本人のうち、半数以上がこのB2以上のドイツ語レベルを有している。
「ビジネスでドイツ人ネイティブ相手にペラペラ、という水準にはまだまだ達していませんでしたが、B2レベルに達するとできることも増えてきましたね。友人と話したり、生活一般には困らないような感じです。そのくらいの時点から、ドイツの水にもなじみ始めてきて、折角ならドイツで仕事を見つけてこっちでずっと暮らしていこう、という具体的な感情がわき始めました。なので、友人のドイツ人などに教えてもらって就職活動を開始したのもこのころです。」
小林さんの場合、ドイツ語で大学受験レベルを意味するC1の基準には達していなかったため、語学要件の比較的軽い、ドイツに拠点を持つ日系企業を軸に就職活動を行った。また、日本の銀行で5年勤めたという小林さんの職歴も、日系企業を受験する際には有利に働いたようである。
職務上の経験とは、その分野、その専門での職歴、功績などです。ドイツで転職を考える際は、最低でも3年程度、特定の分野での職歴があることが好ましいとされています。そのためこの職務上の経験に対する日独考え方のギャップが、日本人がドイツで転職する際にしばしば難点となることがあります。
出典:[ドイツ就職者たちの声] 旅行好き銀行マンの人生を変えたドイツ就職 小林さん(29歳)
「できれば、金融系以外の仕事に就きたいと思っていました。色々調べてみると、ドイツでは法律も金融のシステムも日本とは根本的に異なりますし、日本で学んだことがあまり活かせそうにない。だったら心機一転、一から新しい分野に挑戦していきたいな、と。その意味で、日系企業を中心に就活を行ったのは、理に適っていたと思います。ドイツ企業の場合、前職の専門と転職後の専門って割と同じ業界であることが求められるのですが、日系企業の場合そこまで厳しい縛りがない。営業としての適性があれば、業界が違くても雇ってもらえるような印象です。」
そう語る小林さんは、ワーキングホリデーの期間である1年のドイツ滞在中に内定をもらうことに成功、そのまま就労ビザに切り替え、ドイツに長期滞在することとなった。
ドイツでの仕事開始について
アルバイトを除けば、小林さんにとって人生初となる海外での仕事経験である。ところが、多くの日本人が経験するカルチャーショックは、小林さんにとっては微々たるものだったと語る。
「すでに一年近く語学学校に通ってドイツの文化も知っていましたし、何よりアルバイトを通じてある程度実践的なドイツ語を身に着けていたことが大きかったかも知れないですね。日本から就職したら、アパート探しとかビザ手続きとかで苦労したという話をよく聞きますが、僕の場合すでに慣れていたのでそこまで不便はなかった。オフィスに行ってオリエンテーションを受けて、すんなりと業務を開始できた形です。」
小林さんの語るように、ドイツで就職する日本人にとっての最大のネックとなるのが、現地の文化とのギャップである。その点、すでに一年ドイツで生活してプライベートでも多くの友人に恵まれていた小林さんにとって、その部分のハードルは低かったようで、スムーズに業務に集中できる環境が揃っていた。
「仕事は、ドイツを含む欧州地区の営業管理です。直接顧客とやり取りするわけではないので、ビジネスドイツ語までは要りませんが、社内のドイツ人とドイツ語でコミュニケーションすることは頻繁にあります。もちろん、ドイツ語だけでなく、英語、日本語も使用する環境で、仕事を開始してからイタリア語も勉強し始めましたね。」
「私は元々銀行マンでしたので、貿易用語とか、書類手続きとか、そういったものはとんと疎くて、仕事を始めてから3~4ヵ月は毎日家で勉強していました。あと、銀行ってモノを扱う仕事じゃないですよね。在庫管理とか、デッドストックとか、そういった概念が存在しないんです。メーカーのようにモノが存在すると、それに纏わる製造期間とか、日本からの配送期間、在庫の場所とか、物質的な課題がいくつも出てくる。それは新鮮であると同時に、慣れるまで時間のかかる部分でしたね。」
日本国内であっても、他業種への転職の場合、慣れるまでに時間のかかるケースが少なくない。それでも、業務を覚え、社内外の人間とコミュニケーションをとってスキルアップしていく、という根幹の部分は変わらないと小林さんは語る。
「結局、どんな国でどんな仕事についても、根っこの部分にあるのは人との対話だと思います。日本本社とドイツ人グループとの間で生じた齟齬を解消する仕事をよくおこないますが、大抵の原因はコミュニケーション不足。そうした折衝役には、双方の国で仕事した経験を持つ人間がつくのがうってつけかと思います。」
ドイツでのプライベート、将来について
ドイツでのプライベートの時間の過ごし方についての問いに、小林さんは次のように答えてくれた。
「僕の場合独身でしたが、語学学校時代に知り合った友人が多くて、休日は彼らの住んでいる都市を訪れたり、スペインやチェコに週末旅行に出かけたりと、結婚するまでは割と充実した生活を送っていました。特に、旅行に関しては学生時代からバックパックが趣味だったので、バス一本で隣の国に行けるドイツの環境は、僕にとっては理想的でしたね。ドイツに来て一年ほどは、ほぼ毎週どこかにでかけていました。」
旅行に何かと魅力を感じ、ドイツにまで来てしまったという小林さん。結婚相手と巡り合ったのも、実は旅行がきっかけだったという。
「で、実は、去年国際結婚したんですが、相手はオーストリア人。以前オーストリアに旅行した時に知り合いました。ミュンヘンからオーストリアまで、電車で4時間くらいで、結婚するまではほぼ毎週国境を越えて会いに行っていましたね。結婚してからは一緒に住んでいますが、同じドイツ語圏ということもあり、彼女もすぐに仕事が見つかりました。」
小林さん曰く、仕事もプライベートも充実しており、何より奥さんのこともあって、当分日本に帰る予定はないという。
「もともと、特にプランもなくドイツに来てしまいましたが、色々と人の助けもあって、仕事にもパートナーにも恵まれました。多分、しばらくこのままドイツで生活を続けていきたいと思っています。ドイツでの永住権も手に入れましたし、当座、こちらに暮らすことに不自由は感じません。」
ドイツに来たことを振り返って
「ドイツに移住して、仕事もパートナーも見つけましたが、本当に当時ドイツを選んだのは、指運のようなもんだったと思います。別にワーホリを受け入れている他の国、フランスでもよかったし、スペインでもよかった。たまたま頭に浮かんだのがドイツだっただけのことです。それが、結果的に人生の流れを大きく変えてしまうのだから面白いですね。」
小林さんは、最後にこう語る。日本に残っていたら、それはそれで全く別の楽しい人生が待っていただろうと。
「結局、僕の場合たまたま思い切ってこちらに来てしまっただけで、別に日本で生活することに不満があったわけじゃなかった。友人とかと話していても、そういう人はたくさんいる。でも、最終的に会社を辞めてまでこっちに来る人って言うのは少ない。その最後の一歩になるジャンプを踏み出すかどうか、ネットの上のテニスボールがどちら側のコートに落ちるかのような、本当に偶然のめぐりあわせようなものだと思います。」
小さい時から異国に憧れを覚えたという小林さん。そのFernwehの魅力に掻き立てられ、まさに気の向くままにドイツに移住をし、現地での仕事を獲得した非常に恵まれたパターンともいえる。今では海外旅行の熱意も薄れてしまったと言う小林さんにだが、人生の伴侶を見つけたここドイツこそが、彼の旅の終着点だったのかも知れない。