文明の発展に伴い、利便化された都市部への本格的な人口の流入がはじまりました。通勤や物流が効率化された一方で、満員電車、渋滞、コンクリートジャングルによる閉塞感など、都会ならではのストレス環境が、新たな社会問題として我々の生活を病魔のように脅かすようになりました。鬱病等のメンタルヘルスの不調による経済損失は日本だけで年間4兆円とも5兆円とも言われており、病気と診断されないストレスの仕事効率への負の影響を考慮すると、企業・国家としての損失は測りかねません。

このような問題提起がなされて久しく、ここドイツでも政府と企業が一体となり、ここ数年で本格的な社会人のストレス対策に乗り出すようになりました。ビジネス、マネジメント分野の枠組みを超え、最近では離職率、仕事の効率などをストレス因子との関係で定量化するため、デザイン領域、心理学領域など、多方面からの(あるいは共同での)アプローチが行われ、積極的に「ストレス軽減型社会」の実現が目指されています。

今回の記事では、社員の満足度、離職率の軽減、仕事効率や創造力増長などに影響を与える「理想的なオフィス環境」について、少し普段とは趣向を変えて人事マネジメント×インテリアの目線からまとめていきたいと思います。

心因的問題への人事部的アプローチ

ストレス軽減のためのオフィス環境について触れる前に、少し心理学領域での人事マネジメント研究の歩みに目を向けてみましょう。職場ストレスと仕事や病気への影響の人事マネジメント領域での研究は、通信技術が向上して四六時中業務のプレッシャーに晒られることの多くなった20世紀後半から、特に盛んに行なわれるようになりました。

それぞれの研究結果に関する詳細な説明は割愛しますが、我々が「職場環境」と「ストレス」の関係と聞いて思い浮かべる以下のようなキーワードは、この頃にある程度裏付けがなされたものです。

職場ストレスのもたらすネガティブな影響

  • 直接的・間接的に深刻な病気の原因(医療費増、従業員の病欠)
  • 生産性(個人・チーム共に)の減衰
  • 仕事満足度の低下とそれに伴う離職率の上昇

離職率との関係で有名なところでは、2007年のアメリカ心理学学会の発表によると、52%のアメリカ人が職場ストレスを理由に退職の決断をしています。ここドイツでも、統計方法によってばらつきはありますが、職場でのストレスは転職に至る理由の中で3割近い大きな割合を占めています。

(Motowildo, Packard, & Manning, 1986)を元に作成

もっとも、こうした机上のデータを引き合いに「職場ストレスの改善」を政府が推奨するのはまさに「言うは易し」の典型例でしょう。職場ストレスの典型例とそのアウトプットの関連は以下のように表されますが、左表にある項目は当然のことながら仕事のプロセスや人員数、他の業務との兼ね合いでなされているものなので、シンプルにそこだけを取り出して「改善」を施すのが難しい領域でしょう。

(Raziq & Maulabakhsh, 2015)を元に作成

こうした魅力的な仕事環境を実現する方法として、メンター制度の導入、部下との対面機会を増やす、といった具体例が人事ジャーナルなどでは挙げられており、当然それらの人為的な努力もなされるべき一方で、文字通り「職場の物理環境」自体を魅力的なものに変えてしまおうという手法が、後述の通り最近注目を浴びています。

転職ペンギン

労働者天国と言われるドイツでも、やはり「労働環境改善」は重要な課題だね

フェリ

鬱病や精神疾患のように目に見える労災リスクも怖いけれども、積もり積もった不満がストライキや離職に繋がってしまうのもストレス環境の怖いところね。ドイツ人の離職に関しては「ドイツ人社員が日系企業を離職する5つの理由」の記事も参照してね。

心因的問題への環境心理学的アプローチ

上述した旧来型の「人事部が組織づくりを通じて社員の職場環境を魅力的なものにする」というスタイルとは別に、環境心理学(Environmental psychology)方面からのストレス軽減、生産性向上のためのアプローチというものも20世紀の後半から行われていました。すなわち、都市やオフィスなど、場所そのものをストレスのかからない、あるいは生産性を高める空間にしてしまおう、という試みです。

感覚的に、家の寝室に黄色であったり、病院に黒色であったりが似つかわしくないのは何となく想像がつくと思います。安眠するためにはやはり落ち着いた色使いである必要がありますし、精神的に安定するには人間は明るい色を好みます。これと同じことがオフィス空間にも言え、集中し、生産性を向上し、心地よい感情をもって出社するためにはやはりデザイン学に則ったオフィス設計が必要になってくるわけです。

(Aries et al, 2010)を元に作成

元々は人事畑とは別分野の「環境心理学」ですが、観葉植物は置くべきか、理想的な窓からの距離はどれくらいか、オフィスの人口密度は何人が限界か等々、空間設計研究の関心事が職場や生産性という分野に移っていくにあたり、おのずと「離職率」「生産性」という心理学上のデータを多く持つ人事マネジメント領域と共同研究が増え、この分野での研究が進むようになったわけです。

今回はこの人事マネジメント×環境心理学の中でも、特にオフィス空間で実現しやすい「バイオフィリック理論」について触れていきたいと思います。

転職ペンギン

言われてみると、ドイツ人の職場を訪れると観葉植物が置かれていたり、大きな窓から光を取り入れていたり、なんかそこにずっと居たくなるような空間づくりが多かったかも

フェリ

健康な肉体に健康な精神が宿る、ではないけど、やはり「物理的に明るい職場には、明るい精神が宿る」わね。後述の通り、自然光や観葉植物は精神的にポジティブな影響を与えるわ

人事マネジメントと環境心理学の応用:バイオフィリックデザイン

バイオフィリックという用語自体は、ドイツの心理学者エーリッヒ・フロムによって提唱されたものですが、現在我々の知るバイオフィリック・デザインの原型となる理論は1984年にアメリカのエドワード・ウィルソン教授に広められたものです。

“Biophilia is the inherent human inclination to affiliate with nature that even in the modern world continues to be critical to people’s physical and mental health and wellbeing”
(引用元:The Practice of Biophilic Design

フェリ

和訳:バイオフィリアとは、自然とのつながりを欲する人間の遺伝的な嗜好であり、その性質は現代社会においても引き継がれ、メンタルヘルスや健康上の問題を引き起こすことがある。

上述の説明が端的に示す通り、バイオフィリアとは人類が地球上に発展を遂げた20万年前から培われてきた「遺伝的本質」にスポットライトをあてたもので、たかだか1~2世紀の歴史しかない近代文明よりも人間は本能的に、その歴史の99.9%を共存してきた、自然環境を好む、という理論です。

  • 20万年前・・ホモサピエンスの登場
  • 12万5000年前・・ホモサピエンスの脱アフリカ
  • 4万年前・・最古の洞窟壁画
  • 1万2000年前・・農耕の発展
  • 6000年前・・町の発展
  • 200年前・・産業革命 (人類の歴史からみるとわずか0.1%の期間)

The Practice of Biophilic Designを元に作成)

最も、今の文明を捨てて森へ帰れと言っているのではなく、今の文明を捨て去ることはすでにできないのだから、人間の自然本能を損なわないように上手く共存させた生き方を、オフィスデザインや都市計画を通じて創生しましょう、というのがバイオフィリックのコンセプトです。特に、バイオフィリックは現代病と呼ばれるストレスと密接な関係にあり、後述するとおり「ビルやモニターに囲まれた無機質な仕事環境」は、バイオフィリックの観点では人間の脳に与えるストレスが大きいので、どうやって折り合いをつけるのかが重要です。

そこで登場したのが「ビルのエントランスの噴水」「オフィスの中の観葉植物」といった文明と自然の融合で、これらがストレス軽減やパフォーマンス向上に生理的影響を与えることが証明されているというわけです。

バイオフィリックという言葉自体広範囲で使われるため、何をもって効果を測定するかなど議論が待たれますが、具体的には以下のような点がインテリアで用いられることの多い「生理学的なポジティブ効果をもたらすバイオフィリック要素」として挙げられます。

  • 自然の視覚的な認知
  • 自然の非視覚的な認知(触感や音など)
  • 熱や気流、自然の風
  • 水や火
  • 自然光

以下に、その中でもいくつかオフィスにおけるバイオフィリックデザイン実現のキーとなる要素とその効果について解説していきます。

転職ペンギン

やはり生き物として、人間もペンギンも自然とともに暮らすことを本能的に欲しているんだね

フェリ

とはいえ、いきなり田舎に引っ越すなんてこともできないし、日々の仕事や生活にどうやって折衷案として自然を織り交ぜていくのかがポイントになってくるわね

自然の視覚的な認知

視覚的な認知とは、その名のとおり目で認知できるオフィスの中の自然的な存在のことです。オフィスの窓から眺める自然の風景、オフィスの中の自然、あるいはモニターを通じての自然、などがこれに該当します。

自然の作り出す芸術、炎のゆらめきや木目のようなランダムなパターンが脳に心地よさを生み出す(脳の快楽受容部分へのほどよい刺激)ことは生理学的に立証されており、こうした自然のパターンは人工的に模倣しようとすると途方もない時間と労力と技術がかかるわけです。

自然の視覚的な認知は、特に「ストレス軽減(心拍数の軽減、脳血流の回復など)」に効果的であるとされ、効果が大きいのは影響を与える脳の受容体部分の多い「本物の自然の体感」「窓などを通して見る自然(自然光、外の森等)」「モニター越しの自然や人工的な自然要素」の順となります。

自然光とささやかな自然要素はストレス軽減に役立ちます

本物の自然の体感に関して言えば、すでに皆さんもイメージが湧くと思います。山々、あるいは静かな湖畔に囲まれ、都会の喧騒から遠ざかるとストレスも忘れてしまうことでしょう。例えば、東京大学の恒次教授と千葉大学宮崎教授による共同研究の中では、ストレス状態にある脳のヘモグロビンが森林浴(20分程度)を経て回復することが示されています。

もっとも、こうした森林をオフィス内に再現することは中々難しく、実際には「視覚的な何か」や「外の景色」によって置き換えられるわけです。ワシントン大学では面白い研究がなされ、「本物の窓を通して見る自然」「プラズマモニターを通して見る自然」「何もない白い壁」によるストレス減退レベルの比較検討を行なっており、おおよそ予想はつくと思いますが、「本物の窓を通してみる自然」が人間にとって最もストレス軽減(モニターに比較し実に1.6倍)に影響をもたらすと示されています。

こうした研究結果を上げ始めると枚挙にいとまがないわけで、以下に一部をまとめていくことにします。

  • 視覚的に自然を認知することはストレス軽減、自尊心の向上に役立つ
  • 本物の自然を体感することに越したことはないが、窓越しに見る自然も悪くない。モニター越しに見る自然や人工的な自然物も、ないよりは当然マシである
  • 本物の自然の体感と言う意味では、緑地での運動などがより効果的である。生物多様性はその際効果をあげる(たくさんの動物が生活している森などが理想的)
  • 窓越しに見る自然も重要で、特にドイツとインドでは、外に繋がる大きな窓があると社員の創造力向上につながった。ストレスレベルの軽減、あるいはストレスからの回復にも効果を発揮する(ヒューマンスペース社資料より)
  • 観葉植物やアクセントカラーとしての緑や青もストレス軽減、創造性向上に役立つ

要するに、何もない真っ白な部屋で1日することを想像すると分かるとおり、我々の脳は少なからず刺激を欲しています。そして刺激というのは、脳のパターン予測を良い意味で裏切る、それこそ自然の形成するランダムな芸術物であることが望ましいのです。

転職ペンギン

要約すると、オフィスには自然要素を含めたほうが良い。それが難しい場合は、「自然っぽい」要素でも多少の助けにはなるってことかな

フェリ

その通り!観葉植物や庭もいいけど、やはり手入れが大変だし、夏場は虫がついたりと色々大変だし、人工植物を導入するだけでも随分印象は変わるわね

自然の非視覚的な認知(触感や音など)

自然の音響(聴覚)やフィトンチッド系(嗅覚)の研究等が、この非視覚的自然の認知分野では活用されがちです。例えばストックホルム大学の研究(Stress Recovery during Exposure to Nature Sound and Environmental Noise)は、心理的ストレスからの回復に際し、自然の音は都市部の騒音と比較して最大で37%ポジティブな効果をもたすことを示しました。

千葉大学は「木材セラピー:嗅覚・触覚・視覚を介した生理的リラックス効果」の中で木質内装材のもつリラックス効果を嗅覚、触覚、視覚の点から包括的に実験し、木質内装材のポジティブな効果を測定しています。

直接的な自然のような「近くの公園や森」といった自然要素は勿論、オフィスにバイオフィリック要素を持ち込むのであれば、自然音のBGM、観葉植物、自然素材系の内装材(例えば木材を内装材として使用することは空間に心地よい反響効果ももたらす)、木質系の芳香剤、といったものが有効です。

こちらも、研究結果などを上げ始めると枚挙にいとまがないのですべては取り上げませんが、まとめると以下のとおりになります。

  • 自然音はストレス軽減に役立つ(自然に囲まれたオフィスは勿論、自然音のBGMなども有効)
  • 木の香り(フィトンチッド)はストレス軽減、リラックス効果を与える
  • 内装材としての木材の使用は、心地よい音響効果をもたらす
  • バイオフィリック的な効果を最大化するのであれば、視覚&非視覚的要素を組み合わせるのが最適である(人工的に疑似自然環境を作るのであれば、自然素材を用い、自然のBGMや自然光を取り入れた窓を用いるなど)

水や火

自宅のアクアリウムや庭の池が人の心を惹きつけるのには理由があります。バイオフィリック分野の研究では「水のある景色」と「水の無い景色」では前者のほうによりストレス軽減、リラックス、血圧低減といった生理的な効果が表れており、例えばイギリスのプリマス大学の研究によると、面白いことに、「水の無い緑地」と「水のある都会」のストレス軽減度はほぼ同じ水準であることをつきとめています。

癒しを与える職場のアクアリウム

こうしたことは、オフィスやデパート内に人口の噴水や池を作る動機としても位置付けられており、上述の生物要素と組み合わせて鯉や金魚など生き物をデザインの一部に組み込んでいるところも少なくないでしょう。

もっとも、いくら水が重要だとはいえ、濁っていたりすると逆効果です。また、なんの変化もない水場(魚のいない水槽がオフィスの真ん中にあっても不気味なだけでしょう?)よりは、やはり動きやメリハリのある水場が人間の脳には好まれます。

また、人間の原始的な発明の一つである「火」のゆらぎや薪の臭いも、脳に心地よいリラックス効果を与えます。最近ではお手軽に設置できるプチ暖炉のような製品も登場してきており、バイオフィリックの一環として人気を博しています。

参考文献
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• Boswell, Wendy R., Julie B. Olson-Buchanan, and Marcie A. LePine. “Relations between stress and work outcomes: The role of felt challenge, job control, and psychological strain.” Journal of Vocational Behavior 64.1 (2004): 165-181.
• Kellert, Stephen, and Elizabeth Calabrese. “The practice of biophilic design.” London: Terrapin Bright LLC (2015)
• Motowidlo, Stephan J., John S. Packard, and Michael R. Manning. “Occupational stress: its causes and consequences for job performance.” Journal of applied psychology 71.4 (1986): 618.
• Raziq, Abdul, and Raheela Maulabakhsh. “Impact of working environment on job satisfaction.” Procedia Economics and Finance 23 (2015): 717-725.
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• Tsunetsugu, Yuko, and Yoshifumi Miyazaki. “Measurement of absolute hemoglobin concentrations of prefrontal region by near-infrared time-resolved spectroscopy: examples of experiments and prospects.” Journal of physiological anthropology and applied human science 24.4 (2005): 469-472
• White, Mathew, et al. “Blue space: The importance of water for preference, affect, and restorativeness ratings of natural and built scenes.” Journal of environmental psychology 30.4 (2010): 482-493