ドイツの町は今でも、少し市街地を外れれば、まるで童話に出てくるような自然が残されている。

ゲーテ、ハイネ、シラー、ノヴァーリス・・ドイツを代表する詩人たちもみなその豊かな緑あふれる母なるドイツの自然を愛し、霊感を得てきた。ドイツの古典文学に登場する自然の一場面、高い葦、冬の鈍色の空、陽光の岸辺、といったような表現は、ドイツ人の魂(Seele)の顕現であると言われる所以である。

そのため、ドイツ文学に慣れ親しんだ人物であれば、ドイツに行ったことがなくとも、ある程度その景観を見てきたように脳裏に思い描くことができるかもしれない。ドイツ文学史上屈指の名句と知られるヘルダーリンの「Hälfte des Lebens」に描かれる白鳥の優雅に泳ぐ湖は、ドイツの黄昏時そのものである。

今回インタビューに応じてくれる伊藤さん(仮)は、そうしたドイツ文学に小さいころから慣れ親しんだ、文学少女の一人である。大学でドイツ文学を専攻、一度は日本でドイツ語とは関係のない職種に就いたものの、偶然にも東京で出会ったドイツ人と結婚することとなり、ドイツでの就職を決意する。

長いこと憧れを持ったドイツの土地で暮らす伊藤さんは、果たしてどのようにドイツでの就職をやり遂げたのだろうか。

ドイツに来た理由

「小さいころから寡黙で内気だった」と自身を説明する伊藤さんは、本好きの多くの人間が辿るのと同じように、家での時間を、本を読むことで紛らわせてきた。

「中学生の時、病気で2週間ほど入院しました。当時はスマホもありませんし、手持ち無沙汰になってしまって、母親が持ってきた本を飽きるまで読んでいたのです。ドイツ小説の、トーマス・マンの魔の山という小説に惹かれました、ちょうど主人公と似たような境遇で、シンパシーを感じる部分があったのかと思います。中学を卒業するころには、病気のほうも気にならなくなりましたが、その時から、ドイツという国の持つ雰囲気に何か心地よさを感じるところがあったのだと思います」

ドイツの文学や文化に触れて育った伊藤さんは、ごく自然ななりゆきで大学ではドイツ文学を専攻、その後はドイツ語と英語の語学力を活かして東京で数年ほど、輸入分野の仕事を続けたとのことである。

「学生時代にはドイツに交換留学をしていました。街中にも自然が溢れ、いまなお古城の跡や古い民家が残るドイツの町は、まさに私が幼少期に本を読んで思い描いていたような美しいお伽の世界でした。ただ、当時は言葉の壁もあり、両親も心配していたため、とてもドイツで就職しようという気持ちはありませんでした。あくまで、憧れの国として数ヵ月滞在し、十分満足したのです。それから数年ほど、東京で一般事務職として働いていました。」

そんなドイツでの就職などみじんも考えなかった伊藤さんに転機が訪れたのは、30歳に差し掛かる前のこと。ちょうど、友達に誘われて訪れたドイツ語の勉強会で、日本に駐在に来ていたドイツ人の男性と知り合い、結婚に至った。

「夫に出会ったのは本当に偶然です。私はそういった社交場も苦手でしたし、あまりドイツ語に触れる機会もなかったのですが、たまたま一度だけ友人に誘われて訪れた勉強会で、たまたま始めて顔を出した夫に知り合ったのです。そこから、連絡を続け、1年ほどお付き合いをして結婚に至りました。」

結婚を決めてからの動きはスピーディだったと、伊藤さんは語る。夫の日本での任期が終わり、ちょうどドイツに帰るところだったため、伊藤さんも一緒にドイツに渡り、そこで暮らす決意をしたとのことである。かつて一度は諦めたドイツに、実に約10年越しに戻ることになった。

統計データによると(Career Management調べ)、ドイツで就職する日本人のうち、約10%程度は配偶者の都合などプライベートの理由によるものである。その多くの場合で、配偶者の駐在についていく形か、あるいは伊藤さんのようにドイツ人と結婚するパターンであり、実際のところ珍しいケースではない。

ドイツでの就職活動について

何もツテがなくドイツに来たような多くの他の応募者と違い、伊藤さんの場合、すでに配偶者ビザを支給されており、住む場所にも滞在条件にも困らなかったというアドバンテージがあった。それでも、異国での新生活は様々な戸惑いをもたらすもので、渡航から数ヵ月、生活が落ち着くまで伊藤さんも満足な就職活動を行えなかったとのことである。

「ドイツに来てから数ヵ月は、夫の実家に挨拶に行ったり、ビザの手続きをしたり、銀行口座を開設したりと、割とお役所仕事的なことでバタバタしていました。ドイツ語は、学生の時に交換留学していたとはいえやはりビジネスレベルではなく、当時の勘を取り戻すのに一苦労でした。そんなこんなで、夫の仕事が見つかり手続き関係も落ち着いてくると、ようやく自分も仕事を探さなくちゃ、という気持ちになってきたわけです」

伊藤さんが住居を構えたのは、ケルンという日系企業が多く進出するNRW州の中の中規模都市である。駅前に大聖堂が構え、コロナの流行前は毎日何万人という観光客で賑わうドイツ屈指の観光名所であった。

伊藤さんの就職活動は、自身の輸入業務としての強みを活かし、主にドイツに進出している日系企業を中心におこなった。長年特定の業務に携わっていたことと、英語が堪能であることが認められ、就職活動からわずか2ヵ月もたたないうちに、現地の日系メーカーの内定を勝ち取ることとなる。

「ドイツ企業を対象に就職活動していたら、もっと就職活動が長引いたかも知れません。やはり、日系企業で10年近く働いたという実績が評価され、割と大手の日系企業に幸運にも内定を得ることができました」と、伊藤さんは振り返る。

ドイツでの業務・仕事文化について

伊藤さんの場合、すでにドイツで留学経験があり、かつ配偶者がドイツ人ということで、ある程度ドイツ文化の疎通がとれる土壌が備わっていたようである。ドイツでの仕事経験は初めてながら、特別な問題もなく、職場のドイツ人と割とスムーズなコミュニケーションを行えた。

「仕事文化って、やはりその国の文化や風習をとてもよく反映しているものだと思います。表面的に理解するだけでなく、その国の歴史や過去を紐解いていくと、なんで彼は怒っているのだろう、なんでコミュニケーションができなかったんだろう、というのがはっきりと分かるようになりました。こうした国それぞれの持つ特性って、やはり文学作品とか、映画とか、その国の持つ名作、と呼ばれる作品に色濃く投影されているんだと私は思います。」

小さいころからドイツの文学作品に触れて育ってきた伊藤さんにとって、こうした独特の文化の機微を察することは特段に難しい事ではなかったのかもしれない。

一方で、今まで海外から日本への輸入業務に携わっていた伊藤さんにとって、日本からドイツへの輸入業務は勝手が分からず戸惑うことが多かった。

「ドイツのフォワーダーさんとよくやり取りをするんですが、とてもレスポンスが遅いんです。土日は見積もりをくれませんし、17時以降になると不通です。また、担当者が急に休暇に出てしまい、誰と連絡をとってよいか分からず途方に暮れたこともしばしば。この辺は、ドイツの仕事文化と思い、あらかじめ腹をくくっておくしかない部分もありますね。」

伊藤さんに限らず、ドイツで働く日本人にとっての悩みは、ドイツの業者とのコミュニケーションである。日本では当たり前のようなサービス水準(納期に間に合わせる、計算をきっかり行う)も、ドイツ人にさせてみるとしばしば大味なことが多く、社内でよくトラブルを招く。

「この辺をどうハンドリングしていくかは、やはり輸入部としての仕事の責務なのでしょう。ドイツに来てから、色々と痛い目にあったため、今ではどんなトラブルが発生する可能性があるのか、ある程度予測できるようになりました笑。一番驚いたのは、こちらに説明なく、到着する港が変更になっていたときですね。陸送するとコストが10万円くらいかかるので、慌ててクレームを入れました。」

ドイツでのプライベート・今後について

「実は、昨年ドイツで出産し、しばらく育休を取得していました。ドイツでは男性も育児休暇を取得するのが自然なため、その間に割とストレスなく職場に復帰できましたね。これからの計画については、正直まだまだ未定です、夫がまた仕事の都合で別の国にいくようであれば、そこについていくのもやぶさかではないですし、あまり “必ずしもこうでなくちゃいけない” と人生を決めつけてしまわないように考えています」と、伊藤さんは今後の計画について語ってくれた。

「私がドイツの文学を読んで育ったのも、知り合った夫がドイツ人であったことも、全て指運のようなものだと思います。運命、とまで言ってしまうと大げさでしょうが、あの時フラっと勉強会に参加していなければ夫に出会えていなかったわけですし、また日本にいたら全く違う人生が待っていたんじゃないでしょうか。どの決断が正しかったかなんて誰にも分からないわけですし、今を一生懸命、ドイツで子育てと仕事を両立しつつ、頑張って生きていきたいと思います」

海外就職、国際恋愛と言えば一昔前は映画や小説の中に登場するように、ほんの一部の人の限られた経験だったのかもしれない。それが、伊藤さんのように、受け入れる気持ちさえあればそれらに手が届くようになったのも、グローバリゼーションの恩恵の一つなのだろう。